玉です。
昨今は、マイノリティの方々を理解しようとする動きが盛んで、私も出来る限りそうしたいと思ってはいます。
しかし、マイノリティ(この括りもあまり好きではありませんが)の方からは、「まず、それが余計なこと!」という意見を聞いたります。
「理解なんかいらない。ただ、普通にしていてほしい」
要は、気を使われることが苦痛なのです。
もちろん、身体的な不自由があれば助けたりすることは必要ですが、そうでない場合は、社会のルールを逸脱したりしない限りは「放っておいてほしい」というのも、なんとなくわかる気がします。
しかし、男女平等や子育てに関しても、個人の権利主張が強くなれば、今度は違った問題が生じます。
男女を完全に平等にするのなら、女性だけを特別扱いすることはできなくなります。
子供の教育から厳しさを排し、過保護に育てるのなら、自己万能感が肥大したまま社会に出ることによる問題も、甘んじて受け入れなければならないでしょう。
差別や虐待、いじめなどはよくない。
当たり前です。
しかし、権利ばかりを主張する自己中心的な人間を増やしてもいけない。
要になるキーワードは「与える心」。
突き詰めれば「公の精神」です。
「生きる」という最低限の自由を皆が享受しつつ、社会という枠の中で共に生きるためには、大多数が納得できる基準を熟考し、制定・改定をし続けるべきです。
あとは、その基準の中における、自由と責任のバランスだと思います。