玉です。
子どもたちへの教育が過保護になってしまうのは、少子化が宿命となる先進国にとって抗えない流れかもしれません。
ゆとり、さとり、ニトリ。
なんでもいいのですが、要は、子どものことを考えていない教育の結果です。
その、大人都合の教育のツケが回ってきているからこそ、「生き方」や「働き方」といった「そもそも論」に若者は飛びついています。
あるいは、ネットやバーチャルの世界から抜け出せず、生ける屍のようになっています。
大人の「共依存」や「自己愛」といった都合で、甘やかされて育った子どもたちは、わざわざ巣から出て苦労して生きることに虚しさを感じ、自殺するか生ける屍になることが少なくないようにも見えます。
日本は食糧廃棄率が高く、飽食の国であると同時に貧困の問題もあるという矛盾を抱えています。
それには様々な原因がありますが、どんな環境であっても、人は生きていかなければなりません。
しかし、子どもたちは、自分の力で「泥水をすすってでも這い上がる」というハングリー精神を培えなくなっています(70年前のGHQの目論み通りではありますが)。
教育には、子どもの首根っこを咥えて移動する「猫型」や、子どもが親にしがみついて移動する「猿型」など、様々なスタイルがあります。
今、必要なのはそれではなく、子どもに餌の取り方を厳しく教える「隼(ハヤブサ)型」だと思います。
ハヤブサ親子は、高層ビルであれ、断崖絶壁であれ、危険が伴う場所に巣を作り、雛が落下するかもしれないリスクの中で生きています。
親鳥は子どもに、単に餌を「与える」のではなく、早々と餌の取り方を教えるそうです。
雛も、もし親がいなくなっても「一人で餌を取って生きていくしかない」ことを、本能的にわかっているのかもしれません。
それは、取りも直さず、『自分の頭で考える力』です。
私も、厳しかった父を思い出す時、それが「本当の愛情」だったんだなぁと、しみじみ思います。