玉です。
フロイトやユングと並んで名高いアドラーの『嫌われる勇気』
読んではいないけど、要約は見ました(笑)
つまり、「過去を言い訳にして自分を変えようとしないのはよくない。自分を変えるためには、人の目を気にせず、自己責任において幸せを求めればいい。自由に何をしても良い。人に嫌われようがかまわない。他者貢献という一つの支柱があれば」という意見です。
なるほど。一理あります。
人の目を気にし過ぎたり、いい顔ばかりしていたら、自己犠牲的になり、卑屈にもなって、結果的に損をすることもあります。
「他者貢献」の思いも大事です。
どんなワガママな理屈も、それを掲げていたら「良いこと」になってしまう魔法の言葉です。
ただし、私は「嫌われる勇気」はいらないと思います。
むしろ、なるべく「嫌われてはいけない」と思ってるぐらいで丁度いいと思います。
そうでなければ、この世は人の迷惑を考えないサイコパス人間で溢れかえります(笑)
もちろん、心ない批判に晒された場合は、「どう思われても構わない」という気概が必要な時もありますが、それはまた別の話しです。
他人からの承認欲求も、人間として無くせるものではない。
いや、無くならないでしょう。
本当に必要なのは、「裏切られる勇気」だと思います。
人間にも様々なタイプがいて、皆が自分勝手な理屈で生きていますが、道徳や法律があることで、かろうじて共同生活を送っているかに見えます。
ただ、人間は生まれながらにしてすべて「善」であると考えたら、結果はどうあれ、人を信じた方が「幸せ」だと言えます。
人間は完璧ではありませんが、大多数の人が「よくなりたい」と思って努力はしています。たとえ犯罪者や悪人と呼ばれる人であってもです。
だからこそ、自分の都合で「期待」し過ぎてはいけない。
期待するということは見返りを求めることです。
見返りを求めていては、それは本当の愛情ではなくビジネスになります。
ポイントは、「人間の本質を善だと思うかどうか」です。
この理屈には賛否両論あるでしょうが、人間の本質に善も悪なく、ただの動物だと言うのなら、どうぞその世界で生きていってください。
自分も他人も完璧ではない。
完璧ではない者同士が、なんとか「よりよい方向」に向かって進もうとしています。
時には、脱落したり、後戻りしようとする人を助けられなかったり、自分が助けられたりしながら、力を合わせて生きているのが世界の真相です。
過剰な期待をし過ぎず、見返りを求めずに与え合うこと。
人に厳しくしないといけない場合も、バッサリ斬り捨てるのではなく、「よくなってほしい」という気持ちを持つこと。
完璧にはいかないけれども、よりよく生きようとする努力。
その中で必要なのは、「嫌われる勇気」ではなく「裏切られる勇気」だと思います。
悪い意味で、嫌われることを「よし」とした人間が増えた場合、世界は殺伐としたものになります。
人に過剰な期待をし、無償の愛がもてないからこそ、人は苦しむのではないでしょうか?
もちろん、親が我が子を見るような愛情で、見返りを求めずに与え続けることは難しいです。
しかし、それが大事だと思うところからはじめなければ何も変わりません。
自分もまた、他人の期待を裏切りながらも「許されている」一人です。